「あれから数日経ったけど、勿論彼女の居場所は特定できてるよね?」


 ソファに深く腰掛けたまま少年がぽつりと呟く。
 側に控えていた大柄の男が微動だにしないまま
 野太い声で現状を伝えた。少年は終始笑顔。微笑みは絶えない。


「しかし何故、居場所がわかったのに我々を差し向けないのですか」

「何故、ね。君はこの前彼女を追った部隊の二の舞になりたいの?」

「いえ、そういうわけでは」


 『この前彼女を追った部隊の二の舞』。
 意味深に、更に笑みを深くする少年は、ソファから立って部屋の奥へと向かう。
 奥の壁には、白い部屋があった。ガラスの壁を通して中が見える、水槽のような部屋だ。
 愛しそうにそのガラスを撫でで、少年は言った。


「どう転ぼうと、彼女は僕以外の側にはいられなくなるんだから。
 その時が来たら、迎えにいけばいいんだよ」


 ねえ、コランダム。コランダムの脱走後、初めて報告を聞いた時のように、
 少年は語りかけるように独りごちる。

 君は僕から逃げられないよ。逃さない。



  いのちのうた。  3.なまえ




また数日が過ぎていた。紅は、変わった。以前に比べて少し。
これは紅自身が一番驚いていることだったのだけど。
コランダムは「みんな」の墓参りをしたあの日、泣き顔で笑ったあの時から、おそらく紅に対して無意識に
置いていたはずの遠慮の気持ちとか他人ととる距離を、ほとんどとっぱらってしまっていた。
それに伴って紅の中のコランダムの存在に対する考えも比例して変わった。
以前は億劫だった彼女の存在は、今はそんなに邪魔とも思わなくなった。只朝起きた時おはよう、
夜寝るときにおやすみ、そんな当たり前の筈の言葉を受け取るのにはいまだ戸惑う。
どうしても怖い。焼けるような過去の傷。肉体的なものでなくて精神的なものだけれど、この傷を背負う限り、
彼女がどんなに信頼してくれてもその逆はありえない。信じられるのは自分だけだ。
他人を許すな。傷つきたくなければ。
そう、それこそずっと死ぬまでここで独りでいいと考えていた筈なのに。


「紅!次この話ば読んで!あたし、この文字も読めないったい!」

「・・・また?」


今日で何冊目だ、と言外に含めて見返すと、
コランダムはその頬をぷくっと膨らませて抗議した。


「何ねその顔!最初に『わからなかったら言って』言うとったのは何処の誰ね?」


何故だろうか、彼女の藍い瞳を見ていたら、今までの考えが全部ちっぽけなような、
そんな風に思ってしまう。彼女の千里眼は遠くを見渡すだけじゃなく、真偽をも見抜くと言っていたが、
力を使わずとも彼女の瞳は虚実を嫌うのだろうかと思った。
元々彼女自身、酷く純粋で真っ直ぐなのだ。


「今日はもう駄目。治ってきてるといっても完治じゃない。それにもう夜。寝るんだ」

「・・・じゃあ、明日!明日、読んでくれると・・・?」


完治じゃない、を強調して言葉をおしつければ、彼女は叱られた子供みたいに急にしゅんとした。
しまった、強く言い過ぎたのか?なんとなく罪悪感に苛まれてしまって(何やってるんだろう僕は)
ぎこちないけど彼女の頭を2,3度撫でた。とてもやわらかい彼女の髪は触ると心地が良かった。


「読む、から。今日はもう寝よう」

「紅は?まだ寝んの?」

「まだやることがあるから」


言うとコランダムはそう、と呟いて、残念そうな顔をしつつも
おやすみ、と言って奥の部屋に引っ込んだ。一週間とちょっと前、成り行きで同じ部屋に寝た時
(普段はベッドとベッドがある部屋をコランダムに譲って自分は居間に寝てる)
他に誰かいると安心すると味をしめてしまって以来彼女は一緒に寝てとよくせがんでくる。
でも自分たちは家の主と居候とか言う前に、健全な男子と女子であって、色々と問題があるのでは
ないだろうか(別にやましい気はなくてもだ)
(自分はそういう常識さえも忘れてしまっていたんだ)
戸の隙間から部屋を見る。矢張り疲れていたのかコランダムはもう寝入っていた。
溜息をついて、作業に戻ろうとする。しかし、それは叶わなかったうめき声が聞こえたからだ。
コランダムは眉をぎゅっと寄せ、拳を握り締め、苦しそうに眠っていた。
――そうか。彼女はただ単に一緒にと言ったわけじゃなかった。
幼い頃の両親との、数週間前の『みんな』との死別。組織の中での鳥かごの生活。
そして今彼女は、独りなのだと。
自分と同じ。


(それで、僕と)


闇夜に独り、初めてそうした夜を思い出した。
死にそうになるくらい寂しくて悲しくて。


(気付かなかった)


普段どおり明るく振る舞っているから、大丈夫だと思っていたのだ。なんて浅はかな。
普通、こんな短期間で立ち直れるものでないくらい、わかっていたのに。
音を立てないように部屋に入り、ベッドの側に椅子を置いて座る。
握り締められた拳を無理がないようにそっと解いて、そこに手を重ねて握った。
もう片方の手で手の甲を壊れ物を扱うかのようにそうっと包み込む。
華奢だと思った。おそらく同じ歳のこの少女は、
いろんな命を背中に、一身に背負い込んでいる。
それなのに、華奢だ。握りこんでいたせいで汗ばんだ手は
弱々しく縋るように手を握り返してきた。


(きっと僕が言って、これほど説得力のない言葉はないのに)


ん、とみじろぎをしたコランダムの耳元にゆっくり、囁いた。


「僕がいる。ここにいるから。大丈夫」


声がかすれた。つう、と頬を何かが伝って、
それが涙だと気付くのに随分時間を要した。
拭いもせずにただコランダムの手を握る。


(なんでだろう。なんでこの子が苦しいと、こんなに、悲しいんだろう)


数年ぶりの涙は酷く熱かった気がする。











「ここで待っていなさい」

そう言って黒衣の男は部屋を出て行く。
白い部屋だった。正面にガラスの壁があって広い部屋が見える。それ以外は全て白く、
床はふわふわとして落ち着かない。水槽みたい、と思った。
着慣れないひらひらとしたスカートは、とても美しい染色がされていた。

(こんなきれいなふく、きたこと、ない)

父と母は何も言わなかったけど、自分のこの不思議な力が
人に避けられているのは幼心にもよくわかっていた。
そのせいで二人共町の人たちから避けられて、ちゃんとした生活ができないってことも。
それでも幸せだった。父母は自分のこの力を避けなかった。
むしろいつも褒めてくれて、一緒に笑っていた。


ずうっととおくのうみにね、すっごくきれいでこーーんなにおっきなさかな!およいでたの!

へえ!そうかあ!すごいなあ『     』!大したもんだよ、お前の目は・・・!

すごいわ『     』また素敵なものをみつけたら、教えて頂戴ね?


『     』・・・かすんでそこだけ聞こえない。
何?わたしのなまえはなんだっけ。
病に倒れた二人。足りない食糧。薬を買うようなお金もなくて、
ただ毎日泣いて二人に縋った数日間。



「おかあさんおとうさん!くるしくない?どこか、いたいのっ?
 っ、おみず、・・・の、む・・・?」


ぼろぼろと溢れる涙を、母がやせ細った手で拭った。


「ううん、『     』何も、何もいらないわ。ね、一つ聞いて?」


にこりと笑う母の顔はほの白い。涙で顔をぐしゃぐしゃにしながらうんと頷いた。
いいこね、と頭を撫でて、母は目を合わせた。


「・・・あなたの力は、とっても素敵な力よ・・・他の人がなんて言っても。
これは忘れないで、ずうっと心にしまって、いつでも・・・取り出せるように」


継いで父が言う。


「でもな・・・とても大きな力だ。大きな力は、・・・悪いことに使っちゃいけない。
意味、わかるな?約束だ・・・」


うん、うんと何度も頷いて、父の太い小指に精一杯自分の小指を絡めた。


「やぐぞく、ずるっ!!おぼえてる・・・わるいごとに、・・・づがわ、っないから!!!」


だからお願い、置いてかないで。自分は最後まで言い切ることが出来なかった。
喉が張り付いてる。涙がどばどば流れて顔面はびっしょりだ。
もう我侭言いません。いろんなこと手伝います。だから元気になって。
お父さん、また肩車して、お母さん、また唄を教えて。お願いいなくならないで。
お願い。


「おい、しっかりするんだ!!」


肩をがくがくと揺さぶられた。ぎゅっと目の焦点が合う。
目の前に、白い髪を首の真ん中あたりまで
伸ばしている男の子がいた。


「だ、れ?」

「!よかった。正気に戻ったんだね」


男の子は心底ほっとした、という感じに座り込んでしまった。
正気?何のこと?今あたしはどうなっていたんだろう。
首を傾げても、男の子はそれ以上何も言わなかった。


「僕は・・・そうだね、クォーツ。ここではクォーツって呼ばれてる。君は?」

「あたしは・・・『     』」


すっぽりと抜け落ちてしまっているはずなのに声は確かに発音した。
わからない。あたし、なまえ、覚えてない。なんでいえたの?
そんな心の動揺を察してか、男の子はあたしの肩をす、と優しく撫でてくれた。


「『体だけが』なまえを覚えているんだね。わかるよ。大丈夫・・・つらい思いをしたんだね。
そのつらいことを忘れるまで、君の本当の名前は僕が預かっておくよ。
・・・『ここ』じゃ、本名なんて意味をなさない。寧ろ知られてしまうと危険なんだ」


クォーツの声は聞いているとひどく安心する声だった。
全て任せてしまいたくなるような、優しい優しい声音。


「じゃあ、あたし、いま、なまえがないんだ」


ぽつり、と呟くと心が空虚になった。なまえがない。何故かとても悲しい気持ちだった。
自分は今この世界の何処にも存在を確立されていない。不安定で霧になった気分だ。
すると、クォーツはふるふると首を横に振って、にこりと笑った。


「今、僕があげるよ。『ここ』での呼び名。そうだね、えー・・・っと」


その笑顔が、本当に太陽みたいだったことは覚えている。


「君の呼び名は、『コランダム』。今日から君は、『コランダム』だよ」


その日を境に、あたしの体さえあたしの本当のなまえを忘れた。


雪崩のように流れていく時間。平穏な毎日から一転、地獄のような実験の毎日。
ガラスの壁の向こうから、励ましてくれたクォーツ。かすむ視界。いつからか
こなくなったクォーツ。他の人から、あたしに接しすぎたから、いなくなったのだと聞いて。
あたしのせいでと自分を責めて、また独りだと、孤独にさいなまれた毎日、毎日、毎日。
利用されているという真実。呼ばれるたびに罪を思い出すようになってしまった『コランダム』の名。
たった独りの長い日々。いやだ、いやだ、もうやめて。
森で会ったみんな。やさしくしてくれたみんな。目を覚ましたらただの焦げた肉の塊に
なっていた。何も言わない動かない、またあたしのせいで誰かいなくなる。
父も母もクォーツもみんなも全部あたしのせいでいなくなっていく。
いやだいやだやめて、もうあたしをおいていかないで、独りにしないでよ、
いかないで。いやだいやだいやだいやだ。


お願い誰か、あたしを、独りにしないで独りにしないで独りにしないで。 


目の前が真っ白になる。思考の洪水に飲まれる。このまま身をゆだねて
眠ってしまえば楽だろうか?そんなことを考えていた時。


『僕がいる。ここにいるから。大丈夫』


優しい声だった。聞いたことがない声。・・・ううん、聞いたことが、ある。
声は、ずっと上の方から聞こえた。本当にあなたはあたしの側にいてくれるの?

大丈夫と、言ってくれるの?

意識が浮上していく。洪水から抜け出て、光が見えた。
手を、伸ばした。その手を、誰かが握ってくれた。


「・・・紅」


「・・・おはよう」













「・・・ありがとうったい」


夢で自分を引き上げてくれたのは紅なのだとわかるまで
そう時間は要しなかった。紅その人が、本当に自分の手を握ってくれていたから。
紅が、側にいると言ってくれた。大丈夫だと言ってくれた。
それは泣いてしまうくらい嬉しい事実だった。


「僕、は、別に。何もしてない」


居心地悪そうに目を逸らした紅がおかしくて、コランダムは
ついつい笑いそうになったが、今笑うと益々機嫌を損ねそうだからぐっと我慢した。


「手ば握ってくれて、ほんとに心強かったったい。あたし・・・嬉しかったとよ」


もう嫌な夢見なかったったい。そう付け加えながら、
嬉しいが溢れすぎて思わずにこにこと笑みがこぼれてしまう。
そんなコランダムを見て、紅はぽそり、と呟いた。


「・・・良かった」

「へ?」

「なんでもない」


それより、と紅は話題を変えた。何を言ったか濁されてしまったから
多少納得いかないが、紅自身から話題を振るなんてそうないから、
コランダムはおとなしく聞くことにした。
でも、紅の口から零れたのは、きっと聞かれるとは思っていなかったことで。
隠せていると、思ったことで。


「・・・コランダムって。呼び続けていいの」

「・・・え?」


この人は、どうしてわかる?


「呼ぶたびにつらそうにしてる。ずっと言うか迷ってたけど」


言うべきだと思った。曖昧にはぐらかしていたくないと思った。
僕は変わったのだろうか。それがいい方向か悪い方向なのかはわからない、
ただ僕自身がそう思ったことが、ひどく遠く、けれど大切だった気がする。


「呼ばれてた、って言ったよね。・・・本当の名前じゃ、ないんじゃないか」


俯くコランダム。たっぷりと間を置いてから、ようやく小さく頷いた。
夢でまた、鮮明に思い出した罪の意識。自分のせいでいなくなった人と、
その人がくれたなまえ。


「あたし、ほんとのなまえば忘れてしまったけん。コランダムって、
・・・色々思い出してしまうし、本当は使いたくないとよ」

「・・・うん」

「でも・・・これしかないけん。しょうがなかとね」


本当の名前は忘れてしまった。あの日組織に入った時から、
あの白い部屋に置いてきてしまった。だから自分にはこれしかない。
『コランダム』としての自分しかないんだ。


「・・・そうか」


悲しげに微笑んで見せたコランダムを見て、
「ちょっと待ってて」と紅は席を立った。
寝室を出て、居間の方へ。
紅は居間の本棚から本を一冊取り出してページをめくり、
目当てのページがあったのかそこを広げてこっちへ持ってきた。


「?なんね?その本・・・」

「・・・君が良ければ。僕が君に、名前を」

「え?」


瞬間的にだぶる過去。クォーツの目は赤かった。紅の目は紅色だ。
二つがぶれながら、あたしを見ていた。瞳の光さえ同じ。眩暈のような既視感。
紅が本を指し示す。その先には藍色の石。キラキラと綺麗な。


「君の目に、よく似た物。藍色をした宝石なんだ。それが・・・サファイア」

「・・・紅・・・」

「君の名前は、今日から、『サファイア』」


ずうっと頭の中にかかっていた靄が、晴れていく。


「ありがとう」


本当に久しぶりに、本心で笑えた気がした。





       




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