「いいか。いつか守りたいものができたら、それを全力で守れ」
ああこれは、父さんのことばだ。
いのちのうた。 8.交わす言の葉
サファイアを探して森を走るうち、草原が数人の人によって
踏みしめられた跡を見つけた。ここは国の領地の中でも迷宮と呼ばれるほど
地形が入り組んでいる森で、入れば高確率で生きて戻ることができないことから、
国や近隣の村の人々ならば決して近づかない場所となっている。
自分はこの森に住んで長いから森の中はだいたい把握していたけれど、
なんの土地勘もない人間、それも数人のグループで入ることなど
自殺行為。中にこの森に詳しい人物が居ない限りこんな行動を取る
人間は居ない。自殺志願者なら別だろうが。
おかしい、と思った。足跡からすればそれなりに体格のいい男達の集まりの
ようであるが、ではそんな奴らがこんな森で何をしている・・・?
考えられるのは最悪のケースだ。
(歩幅が揃いすぎてるんだ。・・・こいつら、もしや例の『組織』の)
冷や汗が顎を伝う。心臓の動きがせわしくなり、鼓動の音がやけに
大きく聞こえる。半ば無意識で紅はその足跡を辿った。
その先にあったものは、案の定、その『最悪のケース』が事実で
あることを紅に叩きつけていた。
「サファイアの、ショール」
(ぼろぼろだ・・・これは人為的なもの。かといってサファイア
自身が引きちぎることが出来るほどこの生地もやわじゃない。つまり)
組織が彼女を、連れ去ったということ、だ。
(僕は本当に愚か者だ!今まで何もなかったからって、組織が彼女を
あきらめたとは限らないじゃないか・・・前に一度確実に捕らえる機会を
得たのに放置した点については不可解だけど・・・それはまた
別じゃないか今は。くっそ、いつもならこれくらいすぐ頭がまわるのに!)
彼女を独り森に追い出してしまったことが、さらに悔やまれる。
(落ち着け。今更どんなに振り返ったって時間は戻らない。
今は・・・)
ぼろぼろになった彼女のショールの一部を持っていたナイフで
裂いて、左腕にぎゅっと巻きつけた。これは誓いだ。
(彼女を、助ける)
森の更に奥へと続いていくにつれて薄れていく足跡を辿りながら、
拳を握り締めた。おそらく自分の奥で眠っているであろう激情の
獣の存在を危惧しながら、紅は森を駆けていく。
(戦う術は、誰かを守るためにある。傷つけるためじゃなくて・・・
そうだよね、父さん。それで、いいんだよね・・・)
サファイアは仰向けになって白い天井を呆然と眺めていた。
幼い頃からの心の拠り所は全て偽りと突きつけられてからずっと。
そのどこまでも白く平坦な天井を眺めていれば心を無心にしていられたから。
そんなサファイア(彼にとってはコランダム)をクォーツは楽しそうに
分厚いガラスの向こうから眺めていたが、先程部下が来てなにがしか報告すると
少し驚いたような顔をして部屋を出て行ったっきりで、静寂だけがサファイア以外の
部屋の住人だった。
その水槽のような部屋にあらかじめ用意されていた雲のような布団に身を埋めながら、
これから自分はどうなってゆくのだろうと漠然と考えた。否、考える前に
なんとなくわかっていた。またこの力を行使して無数の人々を盗み見て、
それが悪用されるのをこの水槽から眺めているだけの毎日に、戻るのだ。
また、あの心が斬りつけられるような日々に戻るのだ。
今度は、全ての支えなしに。
(クォーツ)
優しかったあの人。美しい絹糸のような白い髪と、透き通る赤をもつ瞳の
あの人は、今まで見たことも無いくらい暗い笑みでこちらを見ていた。
最初から、偽りなのだと理解してしまったあとは、広がるのは境界線のぼやけた
悲しみばかり。あんなに信じていた。あんなに自分の支えだった。それが脆くも崩れ去る
瞬間の喪失と悲しみには、叫びたいほどの既視感が。ああそうだ、紅の瞳の過去の中、
小さな少年が抱いていた、途方も無いもの、傍観していた自分の胸さえ刺したそれだ。
(ルビー。・・・ルビー)
ごめんなさい、ごめんなさい。あたしの浅はかな行為が、彼が今まで
引きずっていたものを無駄に掘り起こし、引っ掻き回し傷口を開きました。
あたしが異端であることを知りつつ受け入れてくれた、今ではたったひとりのひとを。
(っごめん、なさ、い)
それなのにまだ強欲なあたしがいます。ごめんなさい、許されないのはわかっています神様。
彼のほうがつらい過去を抱えているのにつらい出来事に直面し続けていたのに、
そんな彼をこのちからで傷つけたというのに、
彼に、たすけて、と、そばにいて、と。叫んでいるあたしがいるのです。
ぼろぼろと涙をこぼし始めた目を両腕で覆う。無意識に連呼する名が彼の
本当の名だと気付かないままか細く、サファイアはただ呼び続けた。
ルビー。ルビー。
その名に幾千の意味を乗せて。
だから、聞こえた声は幻ではないとわかるのに、たっぷり時間を要とした。
だって、ありえるはずが無いと思っていたから。信じられなかったから。
サファイア
サファイア!
その呼び声はだんだんと近づいてきているように聞こえる。
組織の誰かが呼んでいるかと思っていたが、一瞬の思考の後
それは完全に否定される、なぜなら、この組織に自分をサファイアと
呼んでくれる人間は誰一人としていないのだから。
自分をサファイアと、そう呼んでくれるのは唯一人しか存在しない。
期待に胸が揺れる。そんなわけがないと否定しつつ何よりも
彼の人を望む自分が居る。ベッドから飛び降りてガラスに張り付き、
区切られた空間の向こうにある大きな扉を凝視した。
それこそちからで探せばすぐわかるのに、それに思考がまわらないほど
サファイアの頭はひとつのことに集中していた。
紅が、
「・・・、サファ、イア・・・」
ここに、来てくれたという一つの事実に。
(紅・・・!!)
紅はぼろぼろだった。衣服はところどころ擦り切れ穴が開き、
泥でよごれている。ショールの下から伸びる腕には刃物で
斬り付けられたような傷跡がいくつもあった。ここに到着するまで
組織の連中との攻防があったのだろう、紅の息は荒く汗が頬を
伝って床に落ちる。サファイアを見つめしばらく肩で息をしていた
紅だが、一度大きく深呼吸した後サファイアの傍に駆け寄った。
分厚いガラス越しに、手のひらと手のひらが、重ね合わされた。
ぬくもりは伝わらない。((でも、確かに君は(貴方は)そこに、居る!))
「紅、なして・・・っ」
涙が溢れて止まらない。来てくれたことへの歓喜と過去を見てしまった
罪悪感とそれなのにこんなになってまでここへ来た紅への疑問と、
全部がくるくると混ざり合ってどんな言葉を言えばいいのかわからない。
紅は一瞬目を見開いた後、ゆっくりと言った。
「サファイア、このガラス・・・君からの声が届かない」
え、と目を見開いたサファイアを見てから、言葉を続ける。
「まず、僕の話、聞いて欲しい」
涙を流れるままにしている彼女の瞳はとても深く煌めき、頬は紅潮して
ぐしゃぐしゃに濡れている。こんなガラス越しでは、ぬぐってやることも
出来ない。でもこれが、このガラスの壁が、丁度今までの僕らの距離のような
気がしている。互いの望みのすれ違いから生まれてしまった距離。
「うまく、言えないけど。・・・僕は独りが良かった。誰も要らなかった。
だけど、君が来て。横に居て。それが続けばいいって思っていたらしいん、だよ」
「・・・!」
「あの時殺そうと思って、でもそれが何でかすごく怖くて君を突き放した。
僕は自分ばかり考えて君を理解してないで追い出して、独りに戻った。
そうしたら、驚いた・・・独りがとても怖かった・・・思い出したんだ」
初めてたった独りで向かえた夜の闇は恐ろしかった筈だ。
孤独がどんなに心を切り刻むものか知っていた筈だ。
ようやっと、僕は失うことでそれに気がついたんだ。
「・・・謝るとか、それじゃすまないようなことを君にした。
それは、わかってる。自分勝手なのも。・・・でも、僕は、・・・
もう一度君に、戻ってきて、欲しい」
紅の瞳を拒絶しなかった、最悪の僕に当たり前を思い出させてくれた君に。
いまだ掴めないこの感情の答えは、きっと君が持ってるから。
(くれな、い)
・・・悪いのはあたしだ、あたしが傷つけたのに
また戻ってきて欲しいと、こんなあたしに戻ってきて欲しいなんて。
そのために、こんな傷だらけになりながらこんなところまで。
口が動く。
『紅!』
「・・・サファイア。ゆっくり喋って。それなら、なんて言ってるかわかるから」
『・・・く れ な い』
「うん」
サファイアの唇がゆっくり動く。紅はそれを読んで、彼女の音の無い言葉を
少しずつ受け取っていく。
『ば か。く れ な い の 、 ば か』
「・・・うん」
『な ん で 、 そ げ な こ と い う と・・・。
な ん で 、・・・っ』
「・・・」
『か え り た い っ て、 お も っ て し ま う と よ。
あ た し、 あ ん な こ と ば、 し た の に』
「・・・いいんだ。帰ってきて、サファイア」
『え え の ?』
「うん」
『あ た し、 く れ な い の そ ば に お っ て も よ か と ?』
「僕の側に、居て欲しい。サファイア」

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